発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

美術館では絵の具の厚みを鑑賞

朝が特に涼しくなり、秋というものを空気からようやく感じられるようになってきた。温暖化の影響で4月から11月までが夏のように感じられ、秋などそのうち日本からいなくなってしまうのではないかと心配している。

 

芸術の秋、とはよく言ったものだと思う。不快な夏から開放されて、気分が清々しくなると無性に少し遠出をして美術館に足を運びたくなるものだから不思議な気分だ。

 

あれは大学生の時だったが、知り合いが美術館に行ったというので感想を聞くと

 

「絵の具の厚みを見てきた」

 

と返ってきた。この人の着眼点にはいつも驚かされるが、美術館で皆が正面から絵を鑑賞している中で、一人だけ絵の具の厚みを真横からじっと見入っている姿を想像すると、天の邪鬼な私はこれはこれで面白そうだとも感じた。

 

なぜ絵の具の厚みなど見てきたのか尋ねると、描いた人間のエネルギーが伝わってくるからだと言う。塗り重ね方や筆跡などでどの色を強調したかったかも伝わってくるので、むしろ芸術鑑賞法として非常に有意義な方法に思えてきた。

 

以前、記事にもしたが私が美術館巡りを始めたのは大学生も後半になってからだった。それまでの私はというと非常に恥ずかしい話ではあるが、芸術は精神の軟弱な者がやるものだと豪語していた。きっかけはというと世界的な建築家である安藤忠雄氏の講演の中で「なんせ若いうちは感性を磨かんとあきません。感性を磨くために毎週でも美術館行けぇと、学生にはよう言うてるんです。」という内容に感銘を受け心機一転、文字通り毎週のように美術館に通ったことがある。

 

私には芸術鑑賞のルールが有るが、これはルールと言っても難しいものではなく、事前に腕時計やスマホなど電子機器の類を片っ端からロッカーに預けて時間を忘れて真剣に作品と向き合うというものである。

 

加えて作家や作品の知名度に左右されないために、展示室に入ってすぐ、キャプションの文字が見えない距離からからぐるっと絵を見渡し、特に興味を引いたものから鑑賞する。

 

これらのルールに加えて、絵の具の厚みや額縁なども併せて鑑賞するという方針も追加した。倉敷の大原美術館に行った時など、共通券で4つの美術館を回ることができるのだが、一番印象に残っているのはモネの睡蓮、ではなく児島虎次郎記念館の額縁である。実に見事な額縁だと思ったら画家自ら絵に合わせて額縁も製作していたというから驚きであった。私が4つの美術館で一番時間をかけて鑑賞したのが児島虎次郎記念館の額縁であり、他の人の目には単なる額縁マニアのように写ったかもしれない。

 

一度記事にしたので詳細は割愛するが、我々はとかく知名度に左右されがちである。こんな有名人が描いたものだからさぞかし素晴らしいものに違いないと、早合点して早々にその場を立ち去ってしまうことほど、もったいないことはないだろう。

 

ある時、ダウン症の書家である金澤翔子氏の作品展が開かれていると知り、非常に遠方であったが伺ったことがあった。

 

最初の方に展示されていた「生」の字を見るなり、なんと涙が出てきたのである。

 

自分でも驚いたが、何に感動したかというと「生」の字の、書き順にして一画目である斜め払いの、最初の留めの所で紙が破けていた。

 

「生」の字だけを見ていれば、私は何の情も沸かなかったであろう。しかし、この一画目の紙の破け方を目にした時に、底しれぬ「生」への執着のような感情が私の中に飛び込んできたのであった。

 

力強く紙が破けるほどに溜めた力。私の勝手な思い込みなのかもしれないが、何が何でも生きるんだという、常人以上の生への執着を感じ取ることができたことは私の中の宝物になっている。

 

これから行く予定の写真展では絵の具の厚みを見ることはできない。それどころか、最近記事にした照明の色温度の影響で作品の印象が変わってしまうことさえある。しかし、その中にあってもなお感じ入ることができるものがあるのがプロの作品だと思う。感性は筋肉みたいなものであり、定期的に鍛えていればそこまで衰えることはないと考えているので、芸術鑑賞はこれから先も継続していきたい趣味の一つとなっている。

 

(おわり)

 

<参考記事>

 

hattatsu-yakuzaishi.com