全国各地を住み込みなどで転々としたが、特に教育に携わる人と縁があることが多かった気がする。妙に話や価値観が合っていたりして滞在期間わずか数ヶ月の関係にも関わらず、10年近く経っても未だに付き合いがあるものだから不思議である。
最初に勤めた会社の経営者が非常に教育熱心な人であり、主として小中高生向けの教育事業も本業以外に行っていた。教育事業で稼ぐ気は毛頭なく、本業で得た利益の余剰分や一般向けの講演を務めることによる講演料を教育事業などに充てており、私が入社した時点でかれこれ10年近くやっているとのことであった。
若気の至りでは済まされないかもしれないが、当時の私の感覚としては教育の大切さはわかるものの、その利益をよくわからない教育事業に回すくらいなら従業員に還元してほしいとさえ考えていたほどであった。
その考えは退職後も変わらず、一転したのは会社を去って1年以上経ったときである。
この為なら人生を捨てても構わないというほどに風景写真にのめり込んでいた私は、世界的な風景写真家の方のマンツーマンの講義を受けるために単身、北海道に向かう飛行機の窓側の席に着いていた。
ふと隣の席の若い人が気になった。若い、と言っても当時の私も20代後半であったが彼はどう見ても大学生あたりの年齢であってなぜ気になったかというとなんと、飛行機の折りたたみ式の前の座席にくっついているテーブルを広げて何やら指でなぞるような動作を夢中で行っており、左手には参考書を携えていて時折目を参考書から逸しては、テーブルに指で文字をなぞっているので見るからに勉強しているわけだが、ついぞこれほど勉強熱心な学生を見たことがないので大いに興味を持ったわけである。
かといって話しかけられる雰囲気ではなかったのと、飛行機の小さな窓から見える眼下の夕陽と雲がちょうどよい感じで見事な夕景を作り出していたこともあり、私は私で夢中で写真を撮っていたのであるが、ニコンD800のあまりにうるさいシャッター音のせいか、今度は彼のほうが夕景に気付いて「失礼ですが、私も撮っていいですか?」と話しかけてきた。「もちろんです、どうぞどうぞ」と席を変わり、それをきっかけに色々と話をすることになった。
聞けば教育系の学部の大学生であり、教員試験の勉強の最中で生まれ故郷の北海道に帰る途中であるという。
「私も北海道の会社で教育系の仕事にも携わっていました。経営者が全国で講演するような人で、北海道内の小中高生の修学旅行先でもありました。」と話すと、彼は驚いた表情を私に見せて
「実は私が教員を目指した理由は、その方の講演を中学生の時に聴いたからなんです」と答えた。
この時、私の中に一筋の感動のような感覚とイメージが泉のように湧いてきたのであった。
私が会社にいた時に既に教育活動をかれこれ10年近くやっていたわけであり、くだんの経営者はそれこそ星の数ほどの人たちに講演などを通した教育活動を行ってきている。
その星の数ほどの子供たちの中の一人が、聴いた話に感動して教員を志す。10代だった子供は10年という歳月を経れば大人になり、多くの大学生とは違い明確な目標を持って大学に進学して晴れて学校の先生になるわけで、しかもいわゆる「でもしか先生」とは程遠い信念を持った教員である。
当然、仕事に対する熱の入り方が違う。彼はやがて多くの生徒の教育を担当するのだろうが、その中にはかつての彼のように影響を受けて教員を志す者も出てくることだろう。
そしてその子もやがて大人になって・・・と人類が存在する限り半永久的にこの循環が続くわけである。
なんと美しい循環だろうかと思うと同時に、会社にいた時にもっと従業員に還元しろと考えていた自分が恥ずかしくなった。先の記事の河井継之助の長岡つながりでまさに現代の米百俵、あの経営者は現在ではなく未来に投資していたのだと感服したものであった。
その日は富良野の安い相部屋のドミトリーに宿泊して翌日に美瑛で講義を受けることになっていたのだが、二段ベッドの中で先程の飛行機内で湧いてきた教育の循環が忘れられず、興奮してなかなか寝付けなかったことをよく覚えている。
(おわり)