執筆した記事を見直していると、とにかく過去の出来事から振り返っている内容が多いことに気づく。
若い頃にさんざんやって(ひどい目に遭った)自己啓発では、成功者は過去ではなく未来を語ると聞かされてきた。いつまでも過去のことばかり語る人は良くない人なのだと。付き合いを変えろとまであった。
はたして過去を振り返ることはそんなにダメなことなのだろうか。
学生の頃に司馬遼太郎文学にのめりこんだ。先の記事に書いたように安藤忠雄建築巡りと称してわざわざ司馬遼太郎記念館にまで足を運んだほどである。
司馬遼太郎文学に入るきっかけになる作品の多くが「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」であろうと思う。
私の場合は「峠」であった。これは非常に珍しいパターンだろう。元より陽明学に興味があって河井継之助(以後、継之助と略称)の名前を知り、調べると司馬遼太郎氏の作品に継之助が主人公となる作品があることを知った。
読んでいて驚いたのは継之助の先見の明である。
物心ついた時から先見の明のある人が好きだった。時代を先取りして他の誰もがバカにしたり相手にしないものをいち早く導入して結果を出す。織田信長の鉄砲隊にしてもなんとカッコいいものかと子供ながらに感心したものであった。
継之助の目指した長岡藩の像は現代だとスイスのようなものだと思う。薩長(あえて官軍、とは書かない)や旧幕府のどちらにも属しない中立であるが、それは他に頼らない強い経済基盤と軍事力が背景にあることを基本とする。
スイスは「アルプスの少女ハイジ」のような牧歌的なのどかなイメージがあり、国連に加盟してはいるものの永世中立国であることが知られているが基本的に徴兵制であり、毎月のように町内会単位で射撃の訓練があると聞いたことがある。国中の山の至る所に砲を隠し、かつてのSIG(現在はスイスアームズとなっているようだが)のように世界的に有名な武器も製造しているほどの軍事大国という一面もある。またスイス銀行のような特殊な銀行が存在し、世界中からお金が集まってきていることも事実である。
今から150年近く前にして継之助は既にそれに近い構想を持っていた。藩政改革を実施して経済の基盤の充実を図り、ガトリング砲など最新式の兵器を取り入れて中立の立場の背景となる強い軍事力の礎を築こうとした。しかし、時代がそれを許さなかったと話は続くわけである。
昔、長岡出身の人と話をしたことがある。河井継之助の話をするやこの人は話が止まらなくなってきて、終いには薩長が河井継之助に苦しめられていかに憎らしかったかは長岡駅を見ればわかる、長岡城を跡形も無く潰してその上に駅を作って完全に痕跡を消そうとしたのだからと熱くなっていた。
確かに長岡駅は元は長岡城がそこにあったことは有名である。現代なら遺跡の保存をするので考えられないことではあるが、例えば大正初期に作られた現在の近鉄奈良線の線路は今でも平城京遺跡のど真ん中を線路が突っ切っているので、長岡駅も過去の遺跡保存よりも文明開化優先というこの頃の時代の流れなのかわざとなのか真偽の程は定かではないが、そうであってもおかしくない話だと妙に納得した。
こうして小説などを通して歴史を振り返ると必ず思うことがある。
人間というものは同じことをひたすら繰り返しているということだ。
特に戦争になる時、その時の国民感情や政府の対応など恐ろしいほどにまるで同じことの繰り返しである。
過ちを繰り返したくなければ、先人たちが犠牲を払ってくれた歴史に学ぶことが一番である。
私が高校生の時に歴史の授業がカリキュラムとして表記されており、あったはず、だった。
実際には歴史の授業など行われることはなかった。
何をしていたのかと言うと、歴史の教科書だけ買わせておいて実際その時間には理系のため数学が充てられていたのである。
母校だけでなく全国的に「進学実績を上げるため、目的のためには手段を選ばない」という慣例としてはびこっていたこのやり方は後年、「履修漏れ問題」として他県では学校関係者が自殺するほどの大問題となった。なぜかすぐに鎮火したが、今ならもっと大きな問題になっていたことは間違いない。
ただ学校で教わる歴史にも問題がある。覚えさせられるのは何年に何が起こったかということだけであり、肝心な
「何のために(なぜ)、それを起こそうとしたのか(起きたのか)」
ということについて言及し深く考えさせるということをやらない。これではせっかくの歴史を将来に役立てることなど到底できず、受験の手段として単なる学生間の記憶力対決の指標に使われているにすぎない。
こんなものを優秀さの指標にすれば、何も考えずに詰め込んでいるだけの何も考えられない人間が大量に出来上がってしまう。こちらの方が都合が良い、と考える者がいれば話は別ではあるのだが。
何のために明治維新を起こしたのか、何のために大化の改新を起こしたのかなどという「なぜ・何のために」を、模範解答は無しとして多彩な解釈を学生に考えさせる授業があっても良いのではないか。
大学の学問に至って、こと大学の教員は小中高の先生とは違って教える専門家ではないので教えることが下手であったり消極的な態度の人も多い。そのため原則として図書館に通うなどして自分で勉強することが求められる。今まで人に教えられたことを丸覚えして答案に再現することを得意としてきた「優秀な」人は、大学では一気に落ちこぼれてしまう。何を隠そう私もそうであった。
「畢竟、独学に勝るものなし」
という言葉もあるが、やはり自身で興味を持って学び掴んだものでないと血肉となってくれない。
あの頃は良かったと嘆くばかりでは得られるものはため息しかないが、歴史の授業のない我々大人もたまには過去の歴史を自分なりに振り返る時間を持ちたいものである。
(おわり)