発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

お化け屋敷に行きたがるのはなぜ?

大学生の頃にお化け屋敷の「驚かせる」側としてボランティアをしたことがある。

 

大きなテント内に掃除道具入れの縦に長いロッカーのような隠れられるスポットを作って、広場に仮設のお化け屋敷を作り、通りがかった人を呼び込んでは驚かせていた。

 

私はロッカーをバンっと開けて驚かせる担当だった。カップルが通りがかって「絶対にこのロッカー怪しいよね?」と二人で身を寄せ合いながら近づいてくる。ロッカーの横溝の隙間から静かに確認する。

 

羨ましい、いやそんなことはどうでもよい。ここは溜め時である。ぐっと我慢して絶対に開けない。やがて「あ、このロッカー大丈夫だったね〜」と安心しきって背を向けて通り過ぎたその背後から思いっきりドアを蹴飛ばして「うわ〜〜〜〜っ!!!!」と声を上げて驚かせる。それも白と赤の特殊メイクをした顔で、だ。

 

カップルのうち男性の方がへなへなと崩れ落ちるように腰を抜かしていたが、女性の方は男性の半分程度崩れてはいたものの地面に崩れることはなかった。先日テレビでイワトビペンギンのメスが荒波にさらわれたりしながらも断崖絶壁を登っていく様子が紹介されていたが、女性とはどの世界でもたくましいものである。

 

肝試しにしてもそうだが、なぜお金を払った上にこんなことをされてまでお化け屋敷に行きたがるのかと考えると、やはり人間には多少なりともあちらの世界への興味が誰の心のなかにも無意識のうちに存在しているのだろうと思えてならないのである。

 

さて、どうにも私には「あちらの世界」の感覚が多少なりとも感じる感性が備わっているようである。

 

北海道に住んでいた時、車でトンネルを走ると明らかに「ああ、ここはヤバいな〜」と感じるトンネルがいくつもあった。

 

後で北海道在住の人に聞いてみると、やはり出るらしい。

 

モノを見たことはないが、それなりに感じる感性があるようである。

 

一番の恐怖体験は大学生の時の部活の夏合宿先近くの神社でのことだった。

 

部の伝統で深夜まで上級生が厳しい目で見て練習させるものがあった。往々にして体育会系というものは伝統という名の非効率の極みのようなくだらない慣例が残っているもので、私も含め数名が廃止を主張していたがついに通ることはなかった。

 

私が担当した後輩たちには早く寝ろと言って早々に終わらせたが、他の者がまだまだやっている。そのうち深夜も2時を過ぎた。後で聞いて信じられなかったがある者は朝の5時位までやっていたそうである。私もさすがに3時には寝たが、ここまで来ると練習というよりもはや拷問に近い。

 

上級生、まして幹部なので寝るわけにもいかない。少し散歩をしてくると周りに言って夜中に散策に出かけた。人里離れた長野の山奥であり、真夏といえども夜は一枚羽織らないと寒いくらいであった。

 

近くに神社があることを知っていたので少し拝んでいこうかと思い立った。神社に着くと昼間の雰囲気とは打って変わって、どこかおどろおどろしい。

 

薄い月明かりの下、ざらついて薄汚れた狛犬が阿吽の口で私を見つめている。もうそれだけで恐怖を感じさせられるオーラがあった。昼間見た時とは明らかに雰囲気が違う。こんなに怖い顔をしていたのだろうか。

 

狛犬のすぐ先に鳥居があって、その先には一段一段かなりの高さがある石造りの階段が少しある先に50メートルくらいの長い参道があるようで、その奥にさらに階段が本殿に続いていて月明かりの影響なのか、本殿が白く薄ぼんやりと浮かんでいるように見えた。

 

本殿は見えるのだが、いかんせん階段から先の長い参道がなぜか真っ暗で何も見えないのである。携帯電話のライトで照らすも足元くらいしか見えない。何せ街灯もほとんどない田舎道なので仕方がないのだが、それでも暗すぎる。いや黒すぎる、と言ったほうが適切だったかもしれない。

 

その参道を包みこむ漆黒の闇に少なからず恐怖を覚えた。

 

じっと私を睨んでくる狛犬を尻目に鳥居をくぐろうとした時であった。

 

足が動かなくなったのである。

 

というよりも足が全く前に出てくれない。意思は前に前に行こうとしているのに対し身体全体と言うべきか、まず足が拒絶しているようにも感じた。

 

これには本当に驚いた。とにかく足が前に出ない。

 

しかし血気盛んな20歳前後の若者である。こんなところでくじけてたまるか、と妙な意地を出して無理やり足を前に進めた。鳥居をくぐるのに15分以上かけた気がする。

 

そこから石造りの階段を登るのにも難儀した。何せ足が動かない。無理やり意地で5段ほど登ったときであった。

 

「無理。」

 

そう心のなかで確信させるものがあった。

 

私は意地を張って抗うことをやめ、それに素直に従うことにして真っ黒な参道に背を向けた時であった

 

「ゾクーーーーーーっ!!!!!!!」

 

今までの人生で感じたこともない凄まじい寒気、いや寒気のはるか上を行く脊髄を何かが這いずるような感覚を覚えたのである。眠気なんて一瞬で吹き飛んでしまった。

 

「これは、ダメだ!!!!!!」

 

一目散に階段を降りて神社を振り返ることなく後にして、あかあかと電気のついた道場に戻って同期たちの顔を見た時は心底ほっとした。

 

さすがに好奇心旺盛かつ血気盛んな若者、最終日になって帰る前の時間が空いた時の昼間にもう一度くだんの神社を訪ねてみた。

 

あの夜の雰囲気は全く無い急な石造りの階段を登るとお社がある、ごく普通の田舎の神社といったところであった。

 

帰り際に心に引っかかる点があって、狛犬や鳥居の方から本殿の方向を見て驚いた。

 

参道を形作っている石造りの階段があまりに急で長いので、その先にある本殿はそこから見えなかったのである。

 

そもそも50メートルはあったと思しき長い参道なども見当たらない。

 

 

一体あの夜、私は何を見たのだろうか。

 

 

昔、どこかの大学教授が幽霊だの心霊現象だのは非科学的であり存在しないと言い放っていた。

 

極論であると思う。科学が全て解明されていれば世の科学者たちは失業しなければならない。世の中にはまだまだ解明されていないことも多い。だからこそ科学者の仕事が無くならないわけである。

 

私は全国各地に住んだが、出会った人たちの中で幽霊が見える、その人のオーラが色で見える、自然のオーラが見えるという人達に数多く出会ってきた。

 

嘘であるとか統合失調症の陽性症状という人もいるが、私にはとてもではないが嘘や統合失調症には見えなかった。実際、本当に見えていると思う。

 

現代の科学で証明できないものは信じない、というのでは損をしているのではなかろうか。

 

鵜呑みにせよとまでは言わないが、そういう世界もあっていいのではないかと思うところである。

 

小さい頃に親の実家近くで墓場を舞台にした肝試しを従兄弟や現地の子供らとともにやったことがある。墓場はまだいい。非常に賑やかである。しかし、真夜中の静寂に包まれた古い神社の恐ろしさは体験した者でないとわからない。

 

(おわり)