昔、東京から1000キロ離れた小笠原諸島に長期滞在していた時に宿のツアーにスタッフとして同行したことがあった。
お客さんの一人が、「そういえばさっきね、ドバトがいたんだよ。ああ、ここにもドバトがいるんだな〜って」と私に言ってきた。
いや、それはドバトではなくてアカガシラカラスバトという150羽(当時)くらいしかいない、絶滅危惧種の固有種ですよ!!と思わずツッコんでしまったことがある。
そもそも、都会の公園でよく見かけるドバトは小笠原諸島にはいない。
事前知識というものは旅において、スマホの充電器よりも必須であると思う。
往々にして事前知識がなければ素通りして見落としてしまう。
事前知識のおかげでそこに否応なしに目がいき、地元の人に話を聞くと「観光に来た人が、そんなことまで知っているのか」と感心されてさらに詳しい話を引き出すこともときに可能であり、旅の面白さを何倍も高めてくれる。
これから初めて会う人、買いたいと思っている高額商品、進学したい学校など何にしても事前に情報を調べておくことは人生において間違いなく必要な技能であり、大切なことに違いはない。
ただ例外があると感じたものがある。
それは芸術作品である。
私が大学生のときに、前回記事にした建築家の安藤忠雄氏の講演を聞いたときのこと
「若いうちはなんせ感性磨かなあきません。だから私は学生には毎週美術館に行けぇと、毎週でも美術館行って感性磨けぇとそう言うてるんです」
というくだりに非常に感銘を受け、文字通り美術館での芸術鑑賞を毎週のように実行した。この時に多くの作品に触れたことが、後に風景写真にのめり込んだ時の構図づくりに非常に役に立ってくれたのであった。
真剣であった。集中の邪魔になるからとポケットにあるスマホなどの電子機器や財布、腕時計に定期入れまでロッカーに全部預けて鑑賞していた。もっとも、これは今でも行っていることである。
美術館巡りをする上で、まず行ったのは500円程度で貸し出している音声ガイドを借りることだった。
この作者の○○はどこそこの出身で誰それの弟子で影響を受けて、この作品は彼のこうこうこういう精神状況を暗示している云々というものでこれはこれで非常に興味深かったのだが
どうしても先入観が入ってしまうのであった。こういう精神状況を暗示していると言われたらそうにしか見えてこず、音声ガイドの解釈に誘導されているということに気付いたのである。
あくまで後世の人間の後付の解釈であって、当の本人が音声ガイドの解釈通りのことを感じつつ作品作りに勤しんでいたかどうかはわからないのである。
以来、音声ガイドを借りることを辞めてしまった。
正解不正解に関係なく、自分が感じることを大切にしたいと強く思ったからであった。
前回の安藤忠雄氏の記事でも書いたが名前を見ると知名度に少なからず左右されてしまうので、キャプションの印字が小さく名前が見えない状態である展示室に入った瞬間に作品を見回して、感じるものがあった作品から鑑賞することにしている。
それでも鑑賞の回を重ねるごとに作者の名前やイメージが、純粋に作品と向き合うことを妨害してきてしばしば私の中で闘いになっているのも事実である。
事前知識は多くの場合、間違いなく人生の質を高めてくれる。
しかし、こういう例外もあるということを頭の片隅に置いておきたい。
(おわり)