発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

戦前の果物

※ただいま、部品総数の多いペーパークラフトに取り組んでいる影響でエネルギーを大幅にこちらに削がれているため更新頻度がかなり落ちていますが、引き続き継続していきたいと思います。いつもお読み頂いている皆様には本当に感謝しております。

 

 

みかんが美味しい季節になった。この時期、しかも10月末から11月あたりの酸っぱさと甘さが同居していてかつ、房を分けると薄皮が破けるような小ぶりで身がプリッとしまったみかんが私は特に好きである。こうしてパクパク食べていると毎年のように、戦前から生えているみかんを食べたときのことを思い出す。

 

私が以前、小笠原諸島に滞在していたことは何度も記事にしているが、片道切符で渡航してアルバイトをいくつか掛け持ちしたり、宿の仕事を手伝うかわりに寝床を確保していたほとんど放浪状態のような私が当地でビタミン不足をしのいでいた食べ物の1つに、戦前から生えている木のみかんがあった。

 

小笠原諸島はその立地ゆえに否応なしに先の戦争の戦禍に巻き込まれることとなった。特に飛行場にしやすい平たい土地のある島が狙われ、諸島と言うだけあり数ある島々の中でも父島からさらに250km以上も離れた硫黄島は激戦地として特に有名である。

 

私が滞在した父島は平たい土地が本当に無くて岩山があちこちにあって道路も急な坂とトンネルだらけという状況であり、戦時中には飛行場が一応あったらしいのだが現実的に全く適しておらず、近年持ち上がった空港建設計画も計画のままである。しかし、軍の通信施設があったため急降下爆撃や機銃掃射などの部分的な攻撃は受けたものの、硫黄島のような艦砲射撃を徹底的に行った上で陸戦部隊を投入する本格的な戦闘行為は無かったため、戦前の遺物がわりと残っていたりする。

 

みかんを手渡され、「これは、戦前から生えている木のミカンだよ」と教わった。硫黄島のような地形が変わるほどの艦砲射撃を受けていれば地上の草木のほとんどが爆風で消し去られたであろうが、前述の通りこれを免れたので植物も戦前からのものが至るところで滞在当時でも生息していた。しかし若気の至りで写真を残していないことが何とも嘆かわしい。皮が薄くて硬く、見た目は少しシワが多いミカンであって特段、他のミカンと大差無い気がした。恐らく、そのせいで撮っていなかったのだろう。

 

まず目につくのがその種の多さである。とにかく種が多い。というより種がメインであって果肉はオマケのような存在感であった。果実を実らせるのは種(しゅ)の存続が一番の目的なので当然といえば当然ではある。実を食べる度に大量の種を吸い出す必要があって非常に難儀した。うっかり噛み潰せば何とも言えない苦味のような味が瞬く間に口の中を支配する。野生種の果実は何でもとにかく種が多い。以前、住んでいた北海道の海沿いによく生えていたハマナスの実、いわゆる「ローズヒップ」を食べた時もそうであったが、甘そうな見た目とは大量の違い薄い種ばかりで酸っぱくて不味く、さながら味がなくて実の薄いピーマンをかじっているようであった。

 

そして次に来るのは強烈な酸味である。甘みもあるがぎゅっと濃縮された酸味の強い濃い味がクセになった。いかにも栄養が詰まっていそうな味であり、滞在中の私のビタミン不足を補ってくれた一番の健康食品だった。

 

島を去った翌年に国家試験に合格し漢方薬局に勤めることになるのだが、書物を読んで勉強していて興味深いことがわかった。

 

「花粉症などアレルギー性鼻炎の中でもクシャミや鼻水が多いものは甘いものの摂りすぎが原因であって、まずはこれを控える必要がある」

 

この一文を見た時に頭に浮かんだのは例の戦前のミカンだった。頭に浮かんだ事自体が奇跡のようであり、どこか運命のようなものも感じた。今の果物はほとんど全てが品種改良されている。私が食べた島ミカンは酸っぱくて種が多かった。要するに品種改良はその逆の「甘く、種が少ない」ようになされているわけで、現代の果物の摂りすぎは当然のごとく鼻炎を悪化させることになる。

 

甘いものが鼻炎の原因などエビデンスはあるのかと色々と言われそうだが、冷え性に五十肩やしつこい肩こり、天気が悪くなったり低気圧が接近すると頭痛など体調を崩しやすかったり、体を動かすのが何かと億劫な人はほとんど例外ないと言っていいほどに、甘いものやビール好きで運動不足の傾向がある。体に余分な水分が溜まって悪さをする水毒や水滞と呼ばれる状態であるので、現に五十肩などは体内の余分な水分を除く漢方を使うと驚くほどに改善するし、鼻水が多く出るアレルギー性鼻炎に対しては体を温める漢方が効くので、逆に言えばクシャミが止まらずに鼻水がドバドバと出ている時は身体は冷えているということになる。

 

昔は甘いものなど滅多に食べられるものではなかったと聞き及ぶ。年に数回あるかないかの親戚一同が集う法事でぼた餅が食べられる程度で、ほかに甘いものといえば干し柿くらいであったと。

 

「よく冷えたスイカ」などもそうで、今の冷えたスイカは冷蔵庫の4℃くらいのキンキンに冷えたものであるが、昔の冷えたスイカは井戸水で冷やしたせいぜい18℃程度の、今で言えばぬるいスイカが「よく冷えたスイカ」であったわけで、今の冷たい飲み物や食べ物は氷枕で内臓を冷やしているようであるとも言える。内臓は冷えにめっぽう弱いため、氷枕で内臓を冷やす行為がどれほど人の体調を悪化させるかは想像に難くない。

 

衛生環境が悪くて多くの人の体内に寄生虫がいたからアレルギー性鼻炎を発症しなかったという説もあるが、昔は極端に甘いものや冷たいものが少なく、車もないのでよく歩き、ほとんどの人が体を動かす仕事に従事しており、当然エアコンもなくて日々汗をたくさんかいていたことの方がアレルギー性鼻炎が少なかった要因として私は大きいのではないかと考えている。

 

私も筋金入りの甘党であり生来の体質的にも慢性的な鼻炎持ちであるが、甘いものは、とにかくわかっていてもやめられない。苦労してだいぶ減らしたほうではあるものの完全にやめているわけではないので、一種の中毒性があるとさえ思っている。それでもアレルギー性鼻炎はかなりマシになったという自覚はある。

 

アレルギー性鼻炎と甘いものの関係性については漢方をやっている医療従事者の間でもなかなか受け入れ難い考え方のようであるが、私がすんなり受け入れられたのは他でもない、果物でさえ昔のものは決して甘くなかったことを身を持ってよく知っているからである。

 

みかんを食べていると、たまに房の中に種が入っていてうっかり噛んでしまうことがある。口いっぱいに苦味と渋みが拡がる度に私はくだんの島ミカンのことを思い出すのだが、当時で樹齢80年以上、あれから10近く経つので貴重なビタミン以外にも大切なことを私に色々と提供してくれた島ミカンの木はもしかしたらもう残っていないかもしれない。写真も残っていないがミカンを毎年頬張り続ける限り、私の記憶の中で戦前の島ミカンは実り続けてくれることだろう。

 

(おわり)

 

<参考記事:小笠原諸島滞在関連>

 

hattatsu-yakuzaishi.com

 

 

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拗ねたムラサキ

少し忙しいなと思っていたら、一週間近く更新を空けてしまっていた。さすがに最初の頃が飛ばしすぎなだけかもしれないが、今後は週1程度の更新にしてゆったりとやっていきたい。

 

テレビで幕末の頃に活躍した小栗上野介のことが取り上げられていた。小栗上野介は名前こそ知っていたものの、軍を指揮して薩長をさんざん悩ませたわけでもないのに、果たして処刑される必要性はあったのかと疑問に思う程度であった。

 

彼は幕府の海軍力を増強するために自前の軍艦を作ったり整備するための設備である横須賀製鉄所を作ることにし、これらにかかる莫大な資金は生糸の輸出による利益で賄おうと考える。その後の明治政府の富岡製糸場日露戦争で活躍した最新鋭の軍艦の購入などは彼の構想や事業の後追いのようなものであることを考えると、やはり先見の明のある聡明な人物であったのだとわかる。

 

フランスで蚕の伝染病が流行ったために絹の原料が枯渇することになり、日本の生糸にフランスが目をつけたことから全ては始まっていくのだが、この時代のイギリスやフランスの絹の染色について思い当たる節があった。

 

コロナが他人事だった時、まだ自粛がそこまで強く呼びかけられていなかった頃に開催されていた漢方の軟膏である紫雲膏製作イベントがあった。その時の資料は私が執筆したので紫雲膏の紫色について化学染料の歴史など色々と書いた記憶があり、今回は紫雲膏の色でもある「紫」について書いてみることにした。

 

記事中に度々登場する私が勝手に※師匠と呼んでいる人(※注:危ないビジネス系のそれではありません。あしからず。)のイベントに何回か、お手伝いと称して参加させて頂いたことがあり上述の紫雲膏製作イベントもその一つであるのだが、今から書くのは遡ること6年前の、ある村で行ったイベント(薬草に関するが、紫雲膏製作ではない)でのことだった。

 

紫雲膏の主原料となる紫根の起源植物であるムラサキは、その名の通りかつては紫色の染料の原料として利用され、染料以外にも紫根として抗菌作用や抗炎症作用を期待して紫雲膏や紫根牡蠣湯など各種漢方薬にも利用されてきた歴史があり、根っこであるにも関わらず本当に紫色をしており、紫雲膏独特の香りの元はこの紫根とごま油であると言っても過言ではない。現に紫雲膏製作過程で一気に強い匂いが出るのは、この紫根を熱したごま油に投入してからである。

 

今やムラサキは日本にはほとんど自生しておらず、漢方生薬としての紫根は基本的に輸入品であり、ウィキペディアによると環境省レッドリスト絶滅危惧種1Bに属し、日本国内では文字通り絶滅危惧の危機に瀕している。

 

師(以後、O先生と称する)はイベントが開催される地域の年配の人に必ず話を聞く。以前の記事でマムシについて書いた時もそうであったが、昔その地域で薬草などがどういう使われ方をされてきたのか、他にどういう文化・慣習があるのかを丁寧に聞き出していく。

 

村の中をぐるりと皆で散策をしていると、日清戦争後の旅順でも活躍したというフウロソウの仲間であり下痢の特効薬であるゲンノショウコなどが次々と見つかる。ゲンノショウコの下痢止めの効果は眼を見張るものがあり私も愛用しているが、半世紀近く前の日露戦争に関する映画「二百三高地」でもゲンノショウコにまつわるシーンが見られるほどである。そんな中、ひょんな事からムラサキの話になったのだが、村の年配の女性が「昔は一面にムラサキが生えていた」と話し始めたのだった。

 

今や絶滅危惧種であるムラサキが原野一面に生えていたなど、とてもではないが想像もつかない。O先生も食い下がって熱心に聞き出していた。

 

他の参加者の方が、「Oさん、なぜムラサキは絶滅危惧種になってしまったのでしょうか?」と聞いた時、彼がぼそっと放った言葉が忘れられない。

 

「ムラサキはさぁ、誰も見てくれなくなって、もういいや!ってなっちゃんたんだよ。きっと。」

 

旧帝大卒のバリバリの理系人間であるO先生の口からそんな言葉が出てくるからなお面白い。もっとも開発が進んだ結果として自生できる環境が限られるようになり、結果として生息数が大幅に減少してしまったのだろうが、これはこれで面白い見方ではないかと思う。

 

ムラサキは日本では江戸紫の染料として使われてきたものの、歴史の流れとして安価で品質が安定している化学染料には敵わず、ムラサキが染料として利用されることは無くなってしまった。漢方は漢方で明治以後の医療は一転して西洋医学一色になった結果として見向きもされなくなったものの、それでも一部の有志が細々と行ってきてくれたおかげで何とか今に至るわけだが、医療、染料ともに利用されることが無くなったので拗ねてしまったということなのだろう。

 

紫色の化学染料の歴史は何の因果か明治維新のほんの数年前に遡る。ウィリアム・パーキンというイギリス人が、マラリアの特効薬であるキニーネの合成を研究している過程で出来た偶然の産物であったのだが、本国のイギリスではあまり流行らずに海を隔てたフランスで絹を紫で染めたものが流行したという。しかも原料が石炭からガス燈を灯すための石炭ガスを作るときに副産物として出るコールタールであり、これはいわゆる「ゴミ」のようなものであるから安上がりなことこの上ないときている。

 

紫色は洋の東西を問わず、特別な最高位の色とされてきた歴史がある。僧侶のまとう法衣の色、古代日本における聖徳太子の冠位十二階の最高位は紫色であるし、弓道のゆがけ(右手にはめて弦を引っ掛ける、革の手袋のようなもの)の紐などに私の物のように紫色が使われていることがあるが、紐の紫色は小笠原流の流れをくむ人が師範を務めている必要がある上に、薬指の革だけを紫色にすることは令和の時代においても免許が必要であるという。

 

海外でもウィリアム・パーキンがモーブを発見した後、ヴィクトリア女王がモーブ染色の衣服を着用した事を機に紫色が流行し、当初の目的であるマラリアの特効薬の研究はどこへやら、彼は染料の開発に勤しんで富豪になったという。

 

かつて武蔵野台地に群生していたムラサキの根を江戸紫の原料としていたことは既に触れている。歴史に「もし」はないが、もし、もし、モーブ発見前に江戸紫で染め抜かれた絹がフランスで流行っていたら、非科学的な絵空事かもしれないが、ムラサキが拗ねてしまうのが少しだけ遅れたかもしれない。

 

<参考記事>

 

文中の、私が勝手に師と呼んでいる人について

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マムシを利用した伝統文化に関して(※閲覧注意※)

hattatsu-yakuzaishi.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生はペーパークラフトだ!?

「かんたん」と表記のある鉄道のペーパークラフトが手に入ったので、面白そうだと思って久々に作ってみると、意外と難しくて1日がかりで何とか仕上げたものの、設計者は一体何をもって「かんたん」と書いてしまったのか未だに謎である。

 

私がペーパークラフトと出会ったのは、最初に勤めた北海道の会社でのインターンシップの時だった。

 

自分の熱い思いを9枚の便箋に手書きで綴り、講演会でもらった名刺に書いてある住所宛にこの手紙に加えて好きな映画のDVD(炭鉱の町の出身から努力してNASAのエンジニアになった人の実話を基にした「遠い空の向こうに」だったと思う)や難しい折り紙(ものづくりの会社なので手先の器用さのPR)をいくつか折ったものをレターパックプラスに同封して送付し、インターンシップにおいでと言われて卒業式の翌日、ライオンがトレードマークの某高級ホテルでの大学の謝恩会を欠席して単身、まだ雪深く残る北海道の大地に足を踏み入れたのはかれこれ10年近く前になる。

 

まず驚いたのはその寒さであった。内地ではもう桜が咲こうかという時に、私を出迎えてくれたのは低くたちこめる鉛色の空だった。駅のホームは屋根の下であっても猛烈な吹雪の雪が溜まったものが昼間でも凍結しており、静けさと寒さが混じり合った結果として寂しさを感じるほどに、のどかな春の内地とは何もかもが違っていた。今頃、同期達はお世話になった先生たちと豪華な装飾の温かい室内でグラスを酌み交わし歓談しているであろう姿が頭をよぎったかもしれないが、雪の中で満足に車輪が動かない、飛行機の無料の積載量いっぱいまで詰め込んだスーツケースと、何を血迷ったのかギターのハードケースまで持参していたことに加えて、歩道が除雪された雪で埋め尽くされていて歩けないので車道を歩くため、とにかく車に轢かれないことに必死でそれどころではなかった記憶の方が強い。

 

次の日、遅刻がないようにと前日に何度も時刻表を確かめた会社最寄りのバス停に降り立ってからまずやったことはというと、事務所が既に見えている、まさに目と鼻の先にあるこれから2週間も世話になる会社に電話をしたことである。あまりに雪が深すぎて、いったいどこから入っていいのか見当もつかなかったのであった。後で知ったことだが、この地域は積雪量があまりに多いので単なる豪雪地帯ではなく「特別豪雪地帯」になっているという。

 

ぐるっと回ってこいと言われ、雪が深くていよいよスーツケースが走行不能になったのでギターケース共々持ち上げ、事務所に何とか辿り着くと同じくインターンシップの参加者が二人いた。彼らも私と同じ20代での若者であり、この3人で会社にある宿泊施設の一室を借りて自炊の共同生活を送りつつ、2週間のインターンシップを行っていくのである。

 

会社の敷地内にある宿泊施設にはキッチンもあり、冷蔵庫や炊飯器からガスレンジに鍋釜まで一通り揃っていた。我々は大きな期待をもって冷蔵庫を開けたのだが、あろうことかビールとチーズとわさびのチューブと小さな醤油のボトルしか入っていなかった。どうにも酒飲みの共同研究者が置いていったものらしい。

 

当然のごとく、まずすべきことは食料の買い出しである。会社の周りはというと約10キロ四方にコンビニやスーパーが存在しない。しかも車の運転免許の保有者が私だけであり、外は雪が積もっていたり凍結していたりする正真正銘雪国の、それも真冬の北海道の冬道である。車は自由に使っていいよと言われたものの雪道の運転経験など当然ない。仕方がないので広い敷地内の積雪地帯で何分か練習して癖を掴み、私が運転手を務めることになったが北海道の冬は内地とは比べ物にならない厳しさであり期間中、買い出しや温泉に出かける度に視界が1メートルほどしかない猛吹雪やブレーキの効かない凍結路で幾度冷や汗をかいたかわからなかった。

 

次の日、「昨日の晩は何を食べたの?」と聞かれた我々は口を揃えて「カレーです!」と答えると、「まあ、そうなるよね」と皆笑っていた。

 

インターンシップの内容は詳しくは書けないので省略するが、ある日我々3人は、経営者から「ペーパークラフト」を作ってみないか?と誘いを受けた。本当に気軽な誘いであったので遊び半分、それは面白そうだと事務所の一室でロケットのペーパークラフトを作ることにした。60cm以上はあろうかという、紙製とはいえ火薬のエンジンを積めばしっかりと飛ぶように設計されているロケットである。作ったものは期間内に仕上がったら最終日あたりに飛ばそうということになった。

 

ペーパークラフトは本物と同じ構造だから、ペーパークラフトを作ることができたら本物も作れてしまうというのが経営者の口癖であった。私はペーパークラフトなど作ったこともなかったが、当時はまだADHDの気が強かったとはいえ元よりそれなりに凝り性な性格なので、簡単そうで難しいペーパークラフトに四苦八苦しつつも、これが飛ぶのかという好奇心も相俟って就業後も道具一式を宿泊施設の自室に持ち込み、スーツケースを倒して机にしてせっせこ作っていた。

 

ペーパークラフトの鬼門はなんと言っても真円やパーツの内側など曲線、細部のカットと接着全般であると素人ながら思う。特に小さく組み上げた物同士を接着して大きくしていく時に必ずズレてくるのでいかに修正するか都度考えなければならず、工作外のことで意外と時間を取られる。そのため安い道具を使うと作業効率や出来栄えに大きく、それもマイナスの方向に影響してくることは間違いない。そのため使っている道具一式をまじまじと眺めて、他と何が違うかを確認していた。経営者は「道具は良い道具を使え」といつも言っていた記憶が残っている。

 

例えばボンドはエチレン酢酸ビニル樹脂の入ったものを使っており、初めて目にしたのと薬学部だけあって有機化学にはうるさいせいかよく覚えていた。ランニングシューズの衝撃を吸収するミッドソール素材EVAとはこれの発泡体である。通常の木工用ボンドは酢酸ビニル樹脂が主成分であり乾くまで非常に時間がかかるものだが、こちらはエチレンが関係しているのか本当に乾きが速く、あっという間に硬くなっていくので作業の時間が短縮でき、もはや瞬間接着剤レベルであり本当に同じボンドなのかと感心していた。ただ、その分だけ長く伸ばす行為が難しく、私の場合は今では半分程度使った容器にスポイトで水を吸わせて薄めたものと原液を分けて使用している。

 

切り出しは基本的にアートナイフやカッターナイフなどのナイフ類で行うため、これらの質が非常に重要になってくる。薄刃は切れ味が鋭く処理もしやすいが刃がダメになりやすく、持ち方一つ、刃の引き方一つに気を遣う。刃の角度が30°か32°か、それだけでも使い勝手が大きく変わる。もちろん、その下に敷くマットの質で刃の持ちが変わってくるので意外と重要である。

 

直線部であっても、いかに真っ直ぐ切り出すか、どこから刃を入れるべきかなどを図面とにらめっこしながら都度考えていかねばならず、自然と段取り力や想像力が鍛えられていく。

 

万が一失敗すれば、いかにリカバリーをするかを考える必要がある。そのため部品を切り取った後の用紙の余白も迂闊に捨ててはいけないとわかる。用紙の両サイドが機械カットで正確なため、余白は貴重な補修パーツに変身するのだから。

 

全体に丸みをつける時はどういう道具を使って、いかに自然に丸みを出すか、曲線部のカットでいかにナイフを効率よくうまく動かすか、指の入りにくい箇所の接着をいかに上手く行うか、この過程ではどういう道具を用意すべきか、貼り合わせたものがボンドの水分で波打たないよう、平たくするために翌日まで重しを載せてプレスをする必要があるから今のうちに仕込みをしようなど製作過程で思考が止まることはなく、ずっと頭を使い続けるということになる。乾燥時間などを含めると短時間で仕上げることは困難に近く、堪え性も身につくので脳トレをしたいというのなら、ペーパークラフトが良い教材になってくれるのではなかろうか。

 

最終日、私たちのロケットにはC型エンジンというライセンスの必要な大きな火薬エンジンを実装して飛ばすことになった。何でも少し小型のB型エンジンの在庫がなかったようで、しかもC型は今回が初めてになるという。経営者はもちろんライセンス持ちであり、風もほとんどなく、幸いにして雪は止んでいて晴れてこそいないものの絶好の打ち上げ条件が揃っていた。

 

カメラの三脚を改造した特製のロケット発射装置に私の紙製ロケットを垂直に設置し、カウントダウンとともに電気式の点火スイッチを押すと、

 

「バシュゴォーーーーッ!!!」

 

と本物のロケットかというくらいの凄まじい音と、オレンジ色の書道の筆のような形の炎を勢いよく噴射口から吹き出し、あっという間にはるか上空に飛んでいき、鉛色の空に吸い込まれて見えなくなってしまった。経営者が「おー、まっすぐ飛んだね〜」と見上げながら呟いた。聞けば200メートル以上飛ぶらしい。しばらくしてパラシュートらしきものが見えてきたので落下地点を予測してダイビングキャッチにトライしたが、10メートルほどの高さで風がスーッと吹いていたずらをして明後日の方向に飛んでいってしまい、おまけに長靴の片方も脱げて代わりに雪解けの水たまりにダイブをしてキャッチを仕損なってしまったが、まさかここまで飛ぶとは思っておらず大いに感動したことは言うまでもない。

 

入社してからインターンシップの時の話になった時、「あのペーパークラフトでみんなの力を見ていたんだよ」と告げられた時は心底驚いた。上述のようにペーパークラフトは様々な力が要求される。ペーパークラフトを作らせれば人間がわかるんだと言われたが、私は今でもこれは不変の真理ではないかと思うくらいである。

 

中のC型エンジンこそ空港の検査で引っかかるので持ち帰ることは叶わなかったが、ロケット本体はしっかり持ち帰っており、今でも押入れの箱の中で眠っている。

 

あれから10年近く経ち、実に落ち着きのなかった私にも多少の堪え性が身に付いてきたようであり、もう少し道具を揃えてより質の高いペーパークラフトを作ってみたいと自然と思えるようになってきたので、あの時やっていたことはどうにも無駄ではなかったようである。

 

(おわり)